親の死に目に会えなかった筆者が、多くの人が誤解している「親の死に目に会えない」の本当の意味を解説します。親の死に目に会えないのは不幸、という言葉が間違えて使われていることを知れば、自分を許すことができるかも。
私の父は、私が出産した4ヶ月後に亡くなりました。
私は高齢出産で産後の回復が遅く、かつ私の産褥期と父の治療の時期が重なった事、夫が国内外の出張で不在にしていることが多かったことなどから、ワンオペで精神的な余裕が全くないそのさなかに父が亡くなりました。
亡くなったのがお盆時期だった事もあり、姉妹の中で私だけ父の最期に立ち会っていません。
それでも後悔はしていません。
それは、父や母から、「親の死に目に会えない」という言葉の本当の意味をしっかりと教わっていたから。
もしもこの記事を読んでいるあなたが、親御さんの死に目に会えず自分を責めているとしたら、今すぐに自分を許してあげてください。
親の死に目に会えない 本当の意味は?

「親の死に目に会えない」
この言葉を聞くと、親が亡くなる最期の瞬間に立ち会えなかったことを思い浮かべる方が多いのではないでしょうか。
でも「親の死に目に会えない」の本当の意味は実は、自分が親より先に亡くなってしまうこと、つまり親が亡くなる時に自分がこの世にいず、親が死ぬ時に立ち会えないことなのです。
そう解釈すると、親の死に目に会えないのは親不孝、この言葉は「与えられた命をしっかり生きてね」「自分を大切にしてね」という愛情表現と捉えられるのです。
ただ、この解釈にも1つ追記しなくてはならない事があって、望んだわけでもないのに病や事故で親より先に亡くなってしまうお子さんが親不孝という事では絶対にない、という事はお伝えしておきます。
順番に亡くなることは幸せなこと
祖父母が亡くなり、親が亡くなり、子が亡くなる。
順番に亡くなることは、それだけでとても幸せなことだと私はお伝えしたいです。
私の周りでは、自死を選んだ同級生や親戚、事故で亡くなった友人がいます。
そりゃ私はアラフィフなので、その年令になれば1人や2人、そういう人がいてもおかしくないと思いますよね。
ところが亡くしているのは10代や20代の頃の話です。
私はもともと、どの友人とも深く付き合うタイプではないので、さっきまで連絡を取り合っていたような友人が亡くなったというわけではないんですけども、社会に出てから年に1回も会わない地元の友人の突然の訃報に驚かされることを、多分人より少し多く経験しています。
その時のご両親の悲痛な姿を、私は見ています。
だから、親が先に亡くなる事の幸せさがわかるのです。
そして、死ぬ瞬間に立ち会えたかどうかは、些細なことなのだとも感じています。
親の死に目に会えない理由をスピリチュアルに捉えすぎないで

それから、親の死に目に会えない理由を、スピリチュアルに捉えすぎないようにしましょう。
亡くなる瞬間に会えたかどうかよりももっと大切なことは、亡くなるまでに交流を持つこと。
そして、自分自身が幸せになることです。
もしも自分が死を迎える親の立場だとして、(あぁ、あの子にひと目会いたい)そう思ったとしても、だからといって何が何でも私の最期に立ち会いなさいとは思わないと思います。
たとえば私が父の立場だったら、「慌ててこちらに向かっている最中に事故に合わないか」とか、「小さな孫をこんな時期に連れて移動して孫の体調は大丈夫なのか」とか、そういう事を最期の最期まで心配すると思うんですね(現実的にそれが可能かどうかは別にして、あくまでも思考的な話です)。
あなたが自分のお子さんに抱く思いと同じように、まず我が子を心配するのではないかと思います。
親の死に目に会えない それでも前を向こう

もしも私が産後の回復が早かったら。
妊娠前だったら。
近くに住んでいたら。
そうだったら、私は父の最期に立ち会うことができたかも知れません。
でも近くに住んでいたら夫とは出会っていないし、妊娠前だったらそもそも父に私の子を抱かせる事はできなかったし、過去は変えられません。考えても仕方がないこと。
そんな事にとらわれている暇があったら、父との楽しい思い出を息子に聞かせてあげたいと思うんです。
その時できる最善を選んだのであれば、それが正解だし、自分を許してあげられるのは自分だけ。
前を向き、生きていきましょう!